2021年、ショパンコンクールで日本人として2人目となる最高位2位入賞という、51年ぶりの快挙を成し遂げたピアニスト・反田恭平さん。
ピアノとの出会い、そしてピアニストとしての原点は、
3歳のとき社宅に投げ込まれたヤマハ音楽教室のチラシと、
「好きな曲を好きなように弾く」幼少期の音楽教室での体験にありました。
幼少期からショパンコンクール入賞までの軌跡を、まずは年表で振り返ってみましょう。
「こんな天才は見たことがない」と褒められる
最高12音まで和音を聴きとれるように
桐朋学園大学附属「子供のための音楽教室」に入り本格的にピアノをスタート。
入学試験では300満点中なんと18点をたたき出し、“保留くん”というあだ名をつけられる
入学にあたっては父から「コンクールで1位になるのが入学の条件」といわれ、実現した、というエピソードも
「最もチケットが取れないピアニスト」という肩書がつく
一枚のチラシが運んだ、ピアノとの出会い
はじめての楽器との出会いは、2歳。
母親のママ友から誘われ、バイオリン教室へ。3ヵ月通うもなんと「才能がない」と言われる結果に……。
そんな反田さんに転機が訪れたのは、3歳のとき。
名古屋で暮らしていた社宅に投げ込まれた、ヤマハ音楽教室のチラシでした。
ヤマハ音楽教室で体験したのは、エレクトーン。
エレクトーンを習う、というより、
鍵盤を触ると音が出るというのを知り、音を聞く練習、音に耳を慣らす、というレッスン。
先生が出す音を当てるクイズもあり、ズルをして答えたら、「こんな天才は見たことがない」と言われてしまうも、
のちのち実際に聞き取れるようになりました。
父親の転勤で半年で辞め、東京にいくことになりましたが、このときの先生からは、
「この子はとんでもなく耳が良すぎます。東京に行ってからも、必ず何か音楽を続けてくださいね」
と言われました。
個性をめいっぱい伸ばしてもらえた、先生との出会い
東京で通い始めたのは、4歳から12歳まで通うことになった、
「絶対音感を鍛える」と人気のミュージックスクール「一音会」。
ここではピアノだけではなく、リトミックやミュージカル、オペレッタも体験。
人前に立つことが嫌いではなかった反田少年は、
ステージに立って、踊ったり歌ったりしながら、「音楽を楽しむ」体験を積み重ねました。
最初は2週間に1回、30分だけだったピアノのレッスンですが、少しずつ増やすことに。
ここで出会った先生の、『好きな作品を持ってきて、好きなように弾けばいいんだよ』というスタイルが、
サッカーに情熱を注ぎ、ピアノが趣味だった反田少年を少しずつピアノに傾けていきました。
自分の「土台になっているもの」について、のちにこう語っています。
4歳から12歳までに、音楽を好きなように楽しむという経験をさせてもらったことが大きいです。CDショップや楽譜屋さんで気になった曲を自分で見つけてきて、練習したものを先生に見せるというスタイル。先生からこれを弾けと言われたり、教則本を一からさらったりすることは全然なかったですね。この自由な8年があったからこそ、今があると思っています。
https://www.gqjapan.jp/culture/bma/20181116/kyohei-sorita-pianist
そして、新しい楽曲を弾くと、先生も友達もとてもほめて、喜んでくれる。
この「演奏すれば誰かに喜んでもらえる」経験も、のちの反田さんに続く原点となりました。
クラシックを聴くのが好きな母と「音楽は皆無」という父
ヤマハ音楽教室→一音会と、音楽のエリート教育をするご家庭だった⁉と思いきや、
実はそうでもなく……
子供時代は近所迷惑にならないように、電子ピアノで練習を続けていました。
また、クラシックが好きでエレクトーンをたしなんでいた母親は、
「全面的に好きなことをやりなさい」というスタンスで、
漫画『のだめカンタービレ』漫画『ピアノの森』を勧めるなど応援してくれていましたが、
父親は音楽に至っては「皆無」だったといいます。
ショパンのスケルツォの1番を弾いていた時に「こんなにひどい曲はない」って言われてテレビの音を最大にされたりしましたね(笑)。
という、父親とのいまでも忘れられないエピソードも。
父親とはのちに高校進学を巡ってのひと悶着に発展していきます。
骨折で諦めたサッカー人生。情熱をピアノに傾けようとするものの……
ベッカムに憧れ、将来はワールドカップに出場できるサッカー選手を夢見ながら、
続けてきたサッカーを諦めることになったのは、11歳のときのこと。
試合中、右手首を骨折!
「痛い職業は無理」と思った反田さんは、ピアノの道に進むことに決めました。
そして、
2021年のショパン国際ピアノコンクールで4位に輝いた小林愛実さんも当時通っていた、
桐朋学園大学音楽学部付属「子供のための音楽教室」の門をたたくことに。
入会はしたものの、入学試験では300満点中なんと18点!
実技はいいけど、基礎的知識が圧倒的に乏しい、ということで、3か月間特訓を受けます。
その衝撃は、小澤征爾さんが第一期生の由緒ある音楽学校ではじめて“保留くん”というあだ名をつけられるほどでした。
そして12歳で転機が訪れます。
それは指揮者の曽我大介先生のワークショップに参加し、
最終回にオーケストラを指揮させてもらえることになったときのこと。
12歳の少年の一振りで、80人のオーケストラが一斉に鳴り始める。
その瞬間、ものすごく感動して、「天職だと思った」そう。
「指揮者になるためにはどうしたらいいか」曽我先生に尋ねたところ、
「まずは自分がやりたいと思う楽器を決めて、それをとことん極めるのが良い」という答えが。
そのとき、
「ならば僕はピアノを勉強しようと。指揮者になるために、ピアノをがんばろうと決めました」
父から突きつけららた「コンクールで1位になる」という条件
「ピアノをがんばろうと決めた」反田さんは、高校では本格的に音楽をやりたいと希望。
ところが父親から……
「そんな中途半端にやっている子には高い学費は払わん、コンクールで1位になるのが入学の条件だ」
と言われてしまいます。
そこで、中学3年生の進路が決まるまでの期間に受けられるコンクールをすべて受けて、
見事1位を取って表彰状を突き出し、高校入学を勝ち取り、桐朋女子高等学校音楽科に主席で入学しました。
その後も
「プロで活躍しないならピアノをやめてシフトチェンジしろ」
という厳しい言葉を受けながらも、高校3年生で日本音楽コンクールで1位を取ると、
そんな父親の反応も少しずつ上向きに変わっていきました。
夢は、音楽学校設立。そしてオーケストラを聴いたことのない子供たちに音楽を聴かせること
その後、桐朋学園大学音楽学部を経てロシアへ留学。
チャイコフスキー記念国立モスクワ音楽院に首席で入学し、
2016年22歳で、サントリーホールでデビューリサイタル。
全2000席を完売させ、「最もチケットが取れないピアニスト」と言われるまでになりました。
コンサート活動やメディア出演も積極的におこなう反田さんの夢は……
日本のクラシック界を元気にするために、音楽学校を作りたい。
そして、オーケストラを聴いたことのない未開の土地の子供たちのところに行って演奏し、音楽を聴かせること。
その夢に向かって、2018年に ヴァイオリン奏者の岡本誠司、大江馨、小林壱成、桐原宗生、ヴィオラ奏者の島方暸、有田朋央、そしてチェロ奏者の伊東裕、森田啓佑ら若手演奏家8人が集結する「MLMダブル・カルテット」(弦楽八重奏)を立ち上げ。
その後2021年、「MLMナショナル管弦楽団」へと発展しました。
2021年、ショパンコンクールで日本人として2人目となる最高位2位入賞という、51年ぶりの快挙を成し遂げながらも、
夢を追い続ける反田さん。
精力的な活動の裏には、こんな想いがありました。
そのためには僕が有名にならなくてはならないので、演奏活動も精力的にやりますし、留学にしても、同志として生涯共に活動してくれる仲間を探す意味もあるんです。
子供の頃、自由に音楽を楽しんだ経験を原点に、未来の子供たちのために、反田さんの活動は続きます。
トップランナー、一流、と呼ばれる人たちには、
そこに至るまでのドラマと、辿り着くまでの理由があります。
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